本当にありがとう!
旅行好きのお母さんに宇宙旅行をプレゼントします。
楽しんできてください。
そして感想を聞かせてください。
いってらっしゃい!
もとゆきより。
森脇くん、今はどこにいて、
どんなおもしろいことを考えているんでしょうか?
あなたがそっちに逝ってしまってから、
もう一年が経とうとしています。
こっちは相変わらず、毎日納得のいかないことばかり。
イヤな出来事でいっぱいです。
こんな時に、森脇尚志がいたら、さぞや、
遠慮なしにツッ込んで、すっきりさせてくれることでしょう。
さて、いよいよ、あなたが希望していたように、
宇宙に飛んでもらいます。
お母さんと弟さんが「何としても」と頑張って、
実現してくれたんですよ。
すぐ近くにいないことは淋しいですが、これからは、
夜空を見上げると、そのどこかにいるんだと思えますね。
なかなかうまいこと考えたな。
まぁ、そんなことで、、、いってらっしゃい!
長寿国の日本に生まれ親よりも先に逝く子の骨拾うとは
何処かに生きている様な思いの今 踏みにじられる お骨の在りて
生前の息子の願いの宇宙葬 仲間の人らの慈愛に叶う
白梅の一輪の香のゆるやかに哀しみ深き胸に沈み来
1959年5月12日生まれ、まじめな銀行員の娘で二人の弟思いのお姉さんでしたね。
東京生まれ、西宮、前橋、仙台で育ち、宮城一女高と東北大のテニス部が青春でした。
24歳で結婚は少し早かったかな。28歳で病気になったのは、本当に悔しかった。
でも、ダンス、バレエいろいろ出来ましたね。パリを中心に海外旅行もたくさん出来た。
そして料理の腕もあげましたよね。すばらしい人生だった。
シベリアンハスキーのニコルとの出会いが最高でした。魂の友でしたね。
黒ラプラドルのマリアもかわいかった。甥っ子、姪っ子にもくさん優しくしましたね。
秀美、宇宙へ、飛んで、飛んで、飛んで。
あなたがいなくなった 2013 年 3 月2 日。あの日からずっと時が止まったままです・・・
1967 年2 月15 日、冬の寒い日にあなたは元気な産声をあげました。私達家族はあなたが生まれてきてくれたことがどんなに嬉しかったことか。
小さい頃のあなたはとても明るくて活発で、よくピンクレディーのものまねをしていましたね。楽しそうに歌って踊っていたあなたが今も目に浮かびます。中学生の頃のあなたは当時流行っていた竹の子族のまねをして私達をびっくりさせてみたり、ポニーテールにアメリカンスタイルを身にまといロックンロールにはまってみたりと、少々破天荒なところもあり心配したものです。今にして思えば、あの頃からアメリカに憧れていたのでしょうね。
勉強は大嫌いと言うあなたを心配したお父さんが、なんとかして勉強をさせたくて『成績で1番を取ったら留学させてやるぞ』なんて言ったものだから、それからのあなたはまるで人が変わったように通学時間も惜しんで勉強をするほど必死に努力し、みごと1番を達成!
夢だったアメリカ留学も成し遂げ、アメリカでも優秀な成績で大学を卒業し、世界トップ企業 SAP の一員として本社勤務という華々しい経歴に嬉しい半面、なかなか会えないあなたに母としては少し寂しくもあり、お父さんが余計なことを言わなければと思ったものです。
留学中にお父さんと二人であなたに会いに出かけた時のことを覚えていますか?日頃ゴルフばかりで家族を顧みないお父さんを、日本語も通じないゴルフ場に置き去りにしたあなたの仕返しも楽しかったけれど、アメリカから帰国させたくて『帰国するなら高級車を買ってやる』という言葉で騙して帰国だけさせて何も買わなかったお父さんの方が一枚上手でしたね。やっぱり似たもの親子です ( 笑)
誰にでも優しく人の気持ちのわかるあなたは、誰からも愛されみんなに慕われる素敵な女性でした。常に自分のことよりみんなのことを心配するような本当に優しい娘でした。
天国に行ってしまったあなたは今も空からみんなのことを気遣ってくれているのでしょうね。
『私が死んだら私の骨は宇宙に撒いてね。そしたら、ずっとみんなを見守っていられるから』生前あなたが言っていた言葉です。
母は最後のあなたの夢をかなえてあげたいと思います。そしたらまた、止まってしまった時間がゆっくりと動き始めるような気がします・・・
これからもずっとあなたと一緒です。
みー、何もしてあげられなくてごめんね。これからはみーの分まで母さんを支えていくから安心してね。みーは空から母さんのことを見守っていてね。
1935年6月11日生まれ
5人兄妹の2番目。
早くに母を亡くし、幼い弟達の母親代わりとして彼らの面倒をみる。
若い頃はダンスと歌を愛し、歌謡ダンサーを志すが、昔気質の父に反対され断念。
1967年7月27日、大恋愛の末、結婚。美容師として女性達の美容に携わる。
1973年、念願の長女を出産。
私に女性としての振る舞いを厳しく躾ける。また、得意の洋裁で私に服を作り、それらを着せるのを楽しみにしていた。
家族で旅行をするのを楽しみとし、様々な国へとでかけた。
自分に厳しく、人には寛大で気遣いの人であった母は、誰からも愛され慕われる人であった。
病気がちではあったが、決して弱音を吐かず、家族を全力で愛し、守り切った母。
母に愛され育ってきた自分がどれほど幸せであったか、また母という存在がどれ程までに私の人生において大きかったかを、
母を亡くし、初めて思い知らされた。
33年間、私を宝物のように大切に育て、そして愛してくれて本当にありがとう。
私はあなたの娘で本当に幸せでした。
またいつかどこかで会えたら、いっぱい話をしようね。
最後に、本当に本当にありがとう!
パパ。宇宙で、やりたかったことを楽しんでね。
よしひろと一緒に、私たちの中に居続けてください。
お父さん、たくさんの星で満たされた宇宙はどうですか。
夜空で星が輝いた時、私達に教えてね。
おさむへ。
あなたに、100万回の「ごめんね」と、1,000万回の「ありがとう」を伝えたいです。あなたは、私にとって最高の息子であり、最高の友達でした。時間と空間を越えて、あなたともう一度会いたいです。
宇宙の旅を楽しんでいますか? いつまでも輝いていてね。星が大好きだった、しんいち、はるみ、ともちゃん。今、あなたは夜空に浮かぶ星になっています。晴れた日に、話をしようね。
お母さんへ。
宇宙の旅を楽しんでいますか? ずっと宇宙旅行に行きたがっていたよね。愛を込めて、お母さん、「いつまでも私達の友達でいてね!」
夢のない人生に価値はない。テクノロジーが、夢を実現してくれる。エンジニアは、夢を諦め時、エンジニアではなくなる。夢、可能性、そして情熱!
よしひろ、あなたが望んでいたのと同じぐらい、宇宙を飛び回ってね。あなたは、夢の偉大なライダーです。
いつも輝いていて、
最後までかっこよかったお父さん、
これからも永遠に輝き続けてください。
息子は幼少の頃から明るく活発な性格の子でした。
小学校時代は、特に成績は優秀というわけではなかったのですが、クラスの人気者で人望も厚く、皆さんの推薦で学級委員になり、卒業式には答辞という大役を持ち前の明るさでこなし活躍していました。
中学校時代は、スキーが大好きで、市内の中学校スキー大会で見事優勝した様子を校長先生から「晃ちゃんが優勝したよ」と聞かされ、驚きが昨日のことのように思い出されます。さらに、高校時代の、学校等では、エレキギターのバンドチームを結成し学校祭を盛り上げるなど数々の思い出を作ってくれました。
中学校のころから車やオートバイが大好きでしたので将来の夢は白バイ隊員になることで、警察官を志し見事合格、1年間の初任科教育を終え、その後砂川駅前交番に勤務し、日夜勤務に励み成績を向上させ所長に認められ、推薦を頂き憧れの警察本部交通機動隊に入ることができ大変喜んでおりました。
最初はパトカーに乗り翌年念願の白バイ隊員となり人一倍努力し訓練を重ねて全国白バイ安全運転競技大会に2回連続北海道代表選手に選ばれたことを大変自慢しておりました。
息子の誘いもあり応援にと、私ども夫婦で茨城大会まで行って参り、大会では素晴らしい数々の競技を見せて頂き感動の連続でありました。
今思えば、これが最後の親孝行をしてくれたのかなと思い出されます。
さらに、息子の偉大さを知ったのは彼が亡くなってから数々のでき事を聞いてからであります。
まずプライベートではモトクロスのA級ライセンスを持ち、各種の大会で活躍し、亡くなる一週間前の大会で優勝した写真があるスポーツ雑誌に大きく載っていたこと、次の週に「追悼・故笠松晃次選手を偲んで」が半ページにわたり過去の実績を載せて頂き、そしてモトクロスバイクのプレートナンバー11番が永久欠番になったとのことです。
また、事故現場には1年以上にわたり花束やビールが山のように供えられ、警察の方々だけでなくレース仲間も息子の霊を慰めるために捧げられたもので、今年4年目の命日にも沢山の花束が供えられていました。
小さいころはやんちゃで明るく目立つ子であったので、幼稚園の先生や小学校時代の先生まで泣きながら弔問に訪れてくれました。
みんなに好かれ、親しまれていた息子の人柄を聞くにつれ、悲しみはますます強く絶頂期の青春のまっただ中で逝った息子を思い、また28年間楽しい思い出を残してくれたことに感謝を込めて、大好きだった白バイで大宇宙を飛び回り、そして星になっていつまでも輝いていてほしいのが両親の願いです。
とんくんへ
元気ですか? そっちの生活はもう慣れましたか?
さみしくはありませんか?
美和はとんくんの為に何かできることはありますか?
毎日々、とんくんのことばかり考えています。
とんくんがいなくなってから、幸せそうな人をみると、つらくて悲しい思いをしています。
以前はそんなこと、思ったこともなかったのに、
逢いたいです。とてもとても逢いたい。
いつになったら逢えるのか、そればかり考えています。
でも、とんくんのことを考えている時、いつも無意識のうちに空を見上げています。
遠くて近いこの空のどこにとんくんはいるのですか。
もうすぐ星になるとんくん、
今度はどんな夢を美和に見せてくれるのですか。
美和へ
いつもがんばってくれてありがとう。
夜、さみしくて泣いているのも、人前で強がっているのも、幸せそうなカップルを見て傷ついているのも、
俺の代わりに俺の家族を大事にしようとしているのも、自分なりの答えを探して苦しんでいるのも全部、ちゃんと分かっているから。
以前のように話を聞いてあげられないけど、抱きしめてあげられないけど、
いつもいつでも側にいて聞いているから、美和を、皆を、見守っているから、あせらないで、ゆっくりでいいから一歩、一歩、一日、一日、歩いていこう。
どうしてもつらくさみしかったら、空を見て、大きな声で話しかけてみて。
とんくんは、分かっているから。ありがとう。
いつか、絶対、逢えるからね。
人生唯一の同行者、喜久子のために
共産主義国ソヴィエト、アパルトヘイトを改める南アフリカ、虐殺とPKOが大問題になったカンボジアなど、激動の世界史の舞台になっているところを選ぶようにして、海外の旅行数十回、41箇国を巡ったことになる時、それまで何処へ行くのにも、意見が一致していたのに、次回はと考え始めて、初めて二人の意見が食い違った。
その結果、残ったところで唯一、一致して行きたい旅行が宇宙へ出てみることだった。知人の協力も得て、世界中から集めたTシャツの展示会をしてみたころから、体調を崩したあなたは、実は重大な病気にかかっていることが判明した。すぐに、どうすれば宇宙旅行ができるか、調べ始めたが、間に合わなかった。
だから、この度の打ち上げは、生前に果たせなかった夢の実現ということになる。これはとても有り難い企画なのだ。
人間死ねばゴミになるという思想に同感していたあなたにとっては、やがて大気圏で焼尽するという結果は、その遺志に最も適うと思われる。
お空の星になるというような幻想には縁がなかった。むしろ宮沢賢治やサン=テクジュベリ風の空想を嫌っていた。宇宙から掻き消えるのが、あなたの理想だったね。
なぜ宇宙旅行をしたいか、話し合ったことがあった。旅行というものが日常生活からの脱出、非日常への経験拡大とするなら、宇宙旅行は今の世界で考えられる究極の異世界見聞になるわけだった。
珍奇な体験に憧れてとか、人を出し抜いて先駆けて、というものとも違う。向井千秋医師が宇宙に行く理由はただ一つ「ナチュラル・ワンダー」を経験したいから、と言ったそうだ。それに最も近い、これまで行けなかった旅行先が、科学技術の発達で行けるようになった、だから行ってみよう。そういう過去に経験してきた旅行の延長にある宇宙旅行なのだ。
彼女の遺骨のカプセルに刻んだ。「一緒の旅行の代わりになったが、消え方は遺志に近いと思う。ご機嫌よう、まもなく私もいきます」
いつかまた同じ時代を過ごすときまで宇宙で息抜きしてね。
吉輝、UFOに会うんやでぇ。
海釣りと宇宙が好きでした。
ブラックホールとかUFOとかの本を買い込み、宇宙に関係したTV番組を録画していました。
初夏のある夜、一人娘を残してあんなにあっけなく逝ってしまうとは誰も思いませんでした。
わずか2時間ほどの経過でした。
胸の激痛が治まり、救急病院へ連れていこうとしている私の車に乗り込んで「急がなくてもいいから」と言いました。
連れていった救急病院の医師の目の前で椅子から崩れ落ちて意識がなくなりました。救急車で専門病院へ転送しましたが、再び意識は戻りませんでした。
私は20歳離れたあの子の父である兄と二人兄妹でした。
甥のあの子とは10歳しか違いませんでした。生まれてから大きくなるまで、いっしょに暮らし育ちました。
私には弟でした。
もうあの子のために何もしてやることはできません。
せめて宇宙旅行の先取りをさせ、見たいと言っていたUFOに会わせてやりたいと思います。
イマムラ タカアキの人生は、決して平坦なものではなかった。1927年に東京で生まれた彼は、平和な日本で、典型的な日本男児として幼少期を過ごした。
しかし、十代の頃、タカアキの人生は激変する。日本は第二次世界大戦に敗北し、廃虚と化したのだ。多くの日本人がそうであったように、タカアキもまた、田舎をさまよい歩いて食料を探し求め、青春時代のほとんど全てを、生きるためだけに費やした。そして成人後、貿易会社に入社した彼は、日本の復興に少しでも貢献しようと、がむしゃらに働いた。タカアキのような勤勉な市民のおかげで、日本は復興し、驚くべき経済成長を遂げて、国際社会からの信用を取り戻したのだ。
タカアキの人生にも充実期が訪れ、彼は結婚し、家庭を持った。ある時、彼は、愛する息子・イチに、こんな話をした。争いがなくて、誰もが幸せに暮らしている──はるか遠くにあるはずの、そんな場所の話を。
「イチ、見てごらん」。夜空を指差しながら、彼は言った。「この星からすごく離れたところに、お父さんやイチたちみたいな人間が住む、地球のような星があるんだよ。きっと、地球よりもいい場所なんだ。もっと平和で、もっと幸せで。とっても遠いから、今は誰も行くことはできないけれど、いつかそこへ行けるように、人類はスーパーロケットを開発しているんだ」
タカアキは、戦争の道具として利用される、科学技術の最低な使われ方を見た。彼は、より平和でより幸せな未来のためだけに科学技術が使われることを願っていた。
勤勉に働き成功を収めた後、彼は第二の人生を過ごすために会社を退職した。そして、平和に、幸せに過ごすため、楽園であるハワイへと移住しようとした。しかし、上手くはいかなかった。医者から、糖尿病と肝臓病を患っていると診断されたのである。
身体は、確実に病に蝕まれていった。それでも、宇宙にかける情熱は決して失われることはなかった。彼は何度も息子に言った。「もし月へ行けるなら、全ての財産を投じる準備はできている」
1997年1月17日、72歳で、イマムラタカアキはこの世を去った。そして、長年切望していた「より良い場所へ行く」という夢を叶える宇宙への旅が、ついに始まる。息子であるイチは夜空を見上げて言った。
「やったね、お父さん!」